耳を澄ませば
さばです。
色々あって数か月更新が滞っていたブログを、前回再開しました。
更新するためのネタを考えては悩み、更に更新から遠ざかるといった日々を過ごし、何とか一つの記事を出したって感じ。しょうもないダジャレネタでしたが、出すことに意味があった。
ここ何か月も悩みながらブログやウェブライティングのことなどを勉強してきたわけで、それなりに想うこともある。トイレ繋がりだが、今回は別の切り口で記事を書いてみたい。
目の前に人がいるのに手元のスマホに夢中になっているのをそこらじゅうで見かける。それだけじゃない。時短と見栄えの良さからペンとノートを使わずにパソコンで文章を作ったり、一人ひとりが携帯電話を所有しているので友人の家に電話することもなくなり、友人の母親と話をすることも無くなった。スマホが登場し、いろいろなものとのつながりを忘れてしまっている現代。
僕が関係の希薄さを感じている相手、それはウンコです。
最近用を足している最中、こんなことがあった。
「あれ?ウォッシュレットしたっけ?」
排泄のあとはウォッシュレットを使用して、仕上げにペーパーで水をふき取る。その時もトイレを終えようとしてた、スマホを見ながら。
ウォッシュレットを使用したかどうかなんてバカみたいな話だけど、それを忘れるほど意識はスマホの画面にいっており、しかも内容はというと、今では思い出せないような他愛も無いもの。
そこで気づいた。そういえば、最近ウンコを肉眼で確認したのはいつだったろう。
どんどんウンコとの距離が遠ざかってる気がする。
思えば昔はあんなに近かった。子どもの頃、和式トイレで用を足すと、手を伸ばせば触れられる距離にウンコは居た。だけど汚いものを遠ざけるように和式トイレが洋式になってウンコが水に沈み、温水洗浄便座が付いて排泄後も難なく処理する事があたりまえになり、トイレの最中もスマホに集中し、いま、気が付けばウンコは僕のこころの中から消えかかっていた。
便利になってウンコを目視せずとも排泄行為が済んでしまう現代。
自分に問うた。
そんなにグノシーで世の中の出来事に目を光らせてなきゃならんのか?と。
そんなにインスタ映えしている記事を読み漁らなきゃならないんか?と。
それよりももっと大切なことがあるんじゃないのか?
ウンコは形状や量、浮き沈みを見る事で、今日の体調を判断する材料となるだけでなく、僕の体に数時間とどまり苦楽を共にし、酸いも甘いも味わった(と言うか味わわされた)言わば分身と言えなくもないもの。
介護士をしていれば、他人の排泄物を毎日目にするわけで、そこに血が混じってたり、緩かったりすることで我々は声が出せない利用者の体調不良に気づき対処する。その大切な判断材料としているのだ。
わかってるんだ。
それなのに
気づけば立ち上がって便座を確認すると拭いた後のペーパーが浮いている光景がそこにあって、
そこにウンコは見えなくなっていて、
そこに現代社会の縮図を見たわけで、
父さん、
現代は希薄です。
排泄行為が快適になり過ぎてしまった為に、ウンコとの距離が離れてしまった。そこにウンコとの対話は無くなっている。
歩きスマホの危険性が叫ばれている昨今。
スマホはウンコとの繋がりさえも奪っていた。
今こそ視線を上げて、ウンコと対話しよう。
ならば今、僕がすべきことは便器に手を突っ込みウンコを手にとることなのかもしれない。
手に取ってウンコの声を聞くことなのかもしれない。
目を閉じれば、彼らの声が
耳を澄ませば、聞こえてくるかも知れない
コエだけに。
おわり。